大の補聴器嫌いが、
補聴器のお店を
つくるまで。
創業の想いを語る前に、代表の清水が補聴器と出会うまでのストーリーに、少しお付き合いいただけたらと思います。難聴に苦しむようになったのは、中学生のとき。重度の真珠腫性中耳炎という耳の病気にかかっていた清水は中学、高校と手術を繰り返し、その副作用で聴力がどんどん下がっていきました。甲子園常連校の野球部だった清水は、よく聞こえないことで歯がゆい想いを何度もしていました。聞こえないことが、いちばんのコンプレックス。社会人になってからも、聞こえないことを隠して、営業マンの仕事をしていました。お客様のご要望を聞くことが仕事なのに、よく聞き取ることができない。当然、仕事もうまくいかない。精神的に、追い込まれていました。
そんな清水に転機が訪れたのは、1995年。阪神淡路大震災の時でした。直後に現場に入り、ボランティア活動に参加していた清水は、凄惨な現場を目の当たりにし、自分に何ができるのか、誰かの役に立つにはどうすればいいのか、自分は何のために生まれてきたのか、何度も自問自答しました。27歳の時、7度目の手術後の聴力低下で初めて補聴器を着けることを決意。その時に気がついたのです。難聴と補聴器は自分の運命。ならば、難聴者の役に立つことが、自分の使命のはず。自分のように、補聴器に抵抗のある方のために、小型補聴器専門店をつくろうと思い立ちます。当時、富山で会社員をしていた清水は、ビジネススクールで学び、開業資金のために自宅マンションを売り払い、東京に出ることにしました。東京は、同じように困っている方がいちばん多く、自分の役割を果たせる場所だと考えたのです。こうして2003年、ヒヤリングストア目黒店をオープンしました。
創業の時に清水がつくりたかったのは、補聴器ユーザーの気持ちに誰よりも寄り添えるお店。補聴器ユーザーである清水のこれまでの体験がすべて、もとになっています。ヒヤリングストアが、小型補聴器専門店なのは、清水自身がつけていることを感じさせない補聴器を探し求めていたから。お店がすべてビルの2階以上にあるのは、路面店では目立ってしまい、入りにくいと清水自身が感じていたから。お店の内装を明るくきれいなデザインにしたのも、居心地のいい空間と接客で補聴器のイメージを変えていきたかったから。
おかげさまで、創業から19年、今では9店舗にまで広がりました。メーカーと共同で商品開発した“見せない超小型補聴器”は、多くのお客様にご支持をいただいています。
いくつになっても
アクティブな人の、
すぐそばに。
いま、約1994万人(人口の15.2%)と言われる推定難聴者数のうち、実に47%。およそ2人に1人が聞こえていないことに気づいていない、というデータがあります。さらに36%の方が、聴力低下に気づきつつも、補聴器をしていない。つまり、80%以上の方が、難聴をほったらかしにしている状態です。65歳以上の約半分が難聴とも言われています。運動をしないと体力が低下するのと同じように、聴力低下を放っておくと、脳への音の入力が減ることで、言葉を聞き取る力が衰えてしまう。さらに、明瞭度が低くなればなるほど、補聴器の効果を感じにくくなってしまう。だからこそ、ヒヤリングストアでは、少しでも聞こえに不安のある方には、少しでも早く補聴器をつけて、脳に正しい音を届けて欲しいと願っています。
私たちが目指すのは、補聴器をつけることが当たり前になる社会。誰もが目が悪くなればメガネをかけるように、聞こえが悪くなれば、迷わずに補聴器をつけて欲しい。補聴器を少しでも身近な存在にするために、ヒヤリングストアは多店舗展開に踏み出しています。日本中のあらゆる駅に補聴器のお店があれば、補聴器を気軽に試していただくこともできるでしょう。さらに、電子カルテを導入することで、全国のどのお店に行っても、かかりつけ医がいるかのように、気軽に相談していただくこともできるでしょう。
私たちが思い描いているのは、いくつになってもアクティブに、スポーツや音楽、芸術など趣味を思いきり楽しむシニアや、仕事で活躍するシニアが増えている未来です。そんなアクティブなシニアが、当たり前のように補聴器を身につけている未来です。その頃には、日本は補聴器ライフの先進国になっているかもしれません。年を重ねることは、楽しみが増えること。そんなイメージを世界に発信できるような国になっているかもしれません。少し話が大きくなりました。けれども、夢物語だとは決して思ってはいません。思い描く未来へ向けて、私たちは一歩一歩、確実に歩みを進めています。